2001-11-15 第153回国会 参議院 総務委員会 第6号
こういうやり方で、明治の大合併はやっぱり藩制から移行ということがありましたし、それから昭和の大合併はやっぱり中学校の問題とか、中心になるものがあったわけですね。今度の平成の大合併はどういう形になっていくんでしょうか、推進力になるものは。大臣のお考えあれば、伺いたい。
こういうやり方で、明治の大合併はやっぱり藩制から移行ということがありましたし、それから昭和の大合併はやっぱり中学校の問題とか、中心になるものがあったわけですね。今度の平成の大合併はどういう形になっていくんでしょうか、推進力になるものは。大臣のお考えあれば、伺いたい。
これを読ませていただきますと、今から三百三十年ほど前、一六七二年ごろとなっておりますので藩制の始まったばかりかと思いますが、このとき、第一番目に新川開削というふうになっております。
国が進めようとしている施策を勘案して考えていきますと、今三千二百三十二ですか、自治体があるのですが、江戸時代は三百諸侯とかいう藩制をしいておったのです。衆議院の小選挙区というのは今三百ですね。
中には、審議会の委員の皆さん方に、長い歴史やあるいは藩制時代のことを説きながら、何とかして変えてくれという御陳情もあったように伺っております。けれども、何とかして限りなく二倍に近づけるように、委員の皆さん方は断腸の思いで御審議を熱心にいただいた。
それは昔の行政区画が違うから、広島県と岡山県だし、それから藩制時代から言うたら、福山藩と岡山藩ですからね。だから高等学校の生徒の流れなどもそこで一線を画しておるような状況ですからね。
迫川上流地域の水源は、現在北上川水系の迫川とその支流の河川水及び上流の花山、栗駒両ダムの貯留水でありますが、前述しました藩制初期に開削した八本のそれぞれ十ないし二十数キロメー トルに及ぶ基幹用水路による取水及び昭和初期に設置した揚水機によって補完をしております。
私に言わせれば、むしろ藩制時代の府県庁、都道府県のあの区画そのものが大変時代おくれなものが多々あろうと思っておるわけでありまして、ましてや、これを単位とした今日の地裁等の配置には問題が多々あろう、私はこういうふうに思っておるわけであります。ゆえに、適正配置は原則賛成、ただし私は自分の選挙区にかかわることを各論反対なんてけちなことを言うわけではありません。
藩制時代の右どこどこを経てどこどこに至る、左云々どこどこに至る、これが一番うまい。ところが、近来非常に下手なのです。そして、国道、高速道、町道、林道、産業道路それぞれの各システムも違うというあたりが多々ございます。 それにしても間違って入った場合に料金を取るのですね。そうしますと、間違って入った者はまた五百円負担して戻ってきて、ようやくもとのところへ来るということですね。
徳川の藩制時代から明治の改革が行われましたときにも、中央集権的な手法によりまして大きな改革を続けてきたと思います。やはり東京が世界の金融センターになりますと、ほうっておけば当然各金融機関、各企業が東京に立地を求めてまいりまして、そこに行けば自然世界の情報も得やすいわけでありますし、みずからの発展の方向も確保しやすいわけでございます。
この山の無償貸し付けに当たりましてはいろいろな経緯が当時あったわけでございますけれども、現在資料として残っている点を若干御披露申し上げますと、この勅令貸付国有林は、もともとは藩制時代にはそま山と呼ばれたようでございまして、藩有林で地元住民が造林義務を負って、一方でその産物の採取を許されていたということで、地域住民の活用というものが大幅に認められていたようでございます。
○政府委員(小島和義君) 先ほど申し上げましたように、我が国の農業土壌というのは必ずしも大変恵まれた状態にはないわけでございますが、藩制時代この方、そこに人間の経験的な知識の集積によりましてさまざまな農法が築き上げられてきたわけでございます。
これ、私、福島県の白河出身だから言うわけじゃございませんけれども、見てみますと、鳥栖であるとか、あるいはこれ久留米ですか、二県にまたがって指定されようとしているということであれば、先ほどお話もございました、つまり県とかという行政区域というものは——昔はあったんです、つまり藩制のころはいわゆる藩制以外のところと結婚するなどということはなかなかできなかった。
鹿児島−奄美大島−沖繩というような航路がこれはもう藩制時代からの航路なんですよ。大部分がこれにたよっておる。ところが、アメリカが支配した沖繩が、そういう航路の問題とは別に、軍需物資だとかあるいは沖繩ではなくて東京とか大阪に関係のある人が多かったものですからそういうことがなされた。しかしもう一年半たった。
秋田の杉とか、木曾のヒノキ、御承知のようにあれは藩制時代に木を植えてようやくそろった。その間、それこそ二百年ないし三百年たっている木でございますけれども、やはり造林木でございます。
たとえば事業場そのものがなくとも、飛鳥時代の朱をやったときの水銀が残っておるらしいとか、あるいは対馬のカドミウムは、これは何百年か前の藩制時代のものらしいというような話等も聞いておりますが、それらのもので一応長期ということで書いてありますが、いまの堆積物については、そう長期間のものはない。
藩制時代においてもやはりあそこは薩摩と肥後の境です。したがって、藩境警備のために両藩がかなりしのぎを削っておる。言ってしまえば両藩の圧制のもとに水俣はおかれた。言うべからず、聞くべからず、この辺に私は県民意識というものがその地域独特のものとして潜在化しておるんじゃないか、こういう理解をしておるのです。そこへもってきてチッソが権力支配をする、あるいは経済支配をする。
むろん、これは藩制時代からの日本の特殊性に基づくあれで、今日ほど科学も進歩しておらぬのですから、山を治めることがやはり水を治めるゆえんだと考えること、あとは若干の堤防を築くくらいでこれを防止していこうという態度をとっておった、これがいままでの方法であったろうと思うのです。
それでいいということになれば、昔の藩制みたいになつてしまつて、甲の土地では犯罪になつて乙の土地ではけろりとしているような、まるで処罰上の封建制度みたいになつてしまうのですが、それは一体どういうふうに統一するのです。
私どもが、昔藩制時代に築き上げたところの港の状況、或いは土木工事を見た場合に、かの震災のときにも東京の城はびくともしてない。石垣があんな粗末のように見えてもびくともしてない。又港においても当時において造つた港が案外災害に対して平気である。ところが最近造つたところの港は、造つたが、壊れたが、という状態が非常に激しいわけである。いわゆる粗製濫造の気味があるんじやないか。
法令の上で積極的に委任するという規定を欠いているのは、要するに北海道庁時代においても藩制上北海道庁長官の権限を抱括的に拓地植民の事務を処理するというように規定しして、その具体的事項の権限を規定する開発行政の実体法が殆んどなかつたためであります。